メメント・モリ(死を想え)とは、
いかにもこの場所に相応しい言葉ではないか
(遠野志貴 想)

 

 

―MAD TEA PARTY―

FIRST PART

 

小人閑居して不善を為すという諺がある。

三十六計逃げるに勝る計なしという故事成語もある。

が、既に完膚無きまま退路を断たれた後で三十六計に思いを巡らそうとしても、それには少し――いや、かなり無理があるのではと――遠野志貴という人間は思っている。

まあ、落ち着いて考えよう。今の状況が如何に最悪とはいえ、心持ちを鷹揚と構えていれば一縷の突破口くらい見出せる筈だ――落ち着け、俺。

さて、順序立てて考えよう。最初に、発端として思いつく出来事からだ。事の起こりはそう――出会うたびに兄を威圧せずにはいられないらぶりぃしすたあの、困ったような一言だった。よし、健忘症には陥ってないぞ、俺はッ。

 

「兄さん、実は相談事があるのです」

「おっ、では秋葉もとうとう、今日は御赤飯だな」

頭部外傷、一部頭髪と頭皮の掠奪。この時点で、寿命が三日分くらい縮んだと俺は信じている。

「今時、助平親爺でも使わない冗句はやめて下さい」

まいしすたあ秋葉は、お冠っぽい。

「いや、まあそれは良いのです、こほん」

けど、大声を出し過ぎたと思ったのか、途端に咳払いし場を改める秋葉。俺のえいえん逝きは、二十三年と十箇月ほど遠のいたと断定した。

「実は、兄さんに相談したいことがあるのです」

「なんだね、オルバよ」

――リビングの空気が凍りつく。どうやら、とっておきのギャグだったのだが、見事に素通りされてしまったようだ。

「何ですか、そのオルなんとかというのは。あの胡散臭い、似非切支丹の仲間か何かですかッ!!」

単なるアニメの登場人物だというのに、外人名からシエル先輩のことを想起してしまった秋葉は、相性の悪さも相俟って感情爆発。

「全く、嫌な相手を思い出してしまいましたわ――と、こほん」

しかし、怒鳴り散らした後は必ず冷静さを取り戻すのが、秋葉の理性の高さの表れだろう。或いは彼女の場合、反転衝動が更に反転しているだけかもしれないが。

「兄さん、ふざけないで下さい。私は真剣な悩み事を抱えているのですッ!! あんな似非切支丹のことは忘れて下さいッ!!」

頭を抱える秋葉。これは余程、重要な悩みなのだろう。が、そんなに似非切支丹とか騒いでいると、何とか機関辺りから刺客が送られてきそうで少し警戒を強める俺。

「で、悩みとは何なんだ? 俺のできる限りの知恵と経済範囲で頑張ってみるつもりだが――け・い・ざ・い・は・ん・い・で、だぞ」

率直に尋ねると、しかし秋葉は口を濁してしまう。ちなみに経済範囲のことは露骨な当てこすりだったが、柳に葉の如し――残念。

「はい。あと一月もすると私の高校の学園祭があるのですが――」

学園祭というと、浅上女学院かうちか――どちらにしても、どの時分にも属さないパラレルワールドにいる俺にしては余り関係ないことではあるが。

「成程――それで?」

「それで、実は前夜祭の演劇披露の主役に抜擢されてしまったのです」

「ほう――それは別に悩むことでも何でもないじゃないか。秋葉ならその女王然とした態度で、どんな倣岸不遜な人間の役だって演じ切ってしまうに違いないからな」

あ、髪がちょと赤味がかってる。どうも逆鱗に触れてらしい。

「勿論、さっきのは冗談として――だ」

兄の癖に妹に諂うなんて我ながら自尊心の欠片もない行為だが、やはり命には替えがたいのではと俺はおもうッ!! 人間、命は捨てる場所を慎重に選ばねば、だ。ということで平伏して謝りッ!! 情けないとか思わないで欲しい。

あのプレッシャは、一年戦争の紅い人に匹敵するのだから――きっと。

「如何して、何の為に悩んでいるんだ?」

「ええ、まだ何を演じるかが決まってないんです。オリジナルを充てるには期間が短過ぎますし、かといって妙案がある訳でもなし。ということで、胡乱な知識ばかり知っている兄さんに相談してみようと思ったわけです。何か良い案件はありませんか?」

成程、かなり長い前置きだったが、とにかく事情は分かった。この時点で、何点か思いつくものはあったのだが、如何せん主人公が女王然とし過ぎていて、今度は頭皮頭髪を掠奪されただけでは済まないような気がひしひしとする。

が、女王然としてなく尚且つ主人公という役柄は秋葉には似合わない。やっぱり秋葉は下賎のものを迎合して「コゥゥル、ミィ、クイィン」とか恍惚に浸りながら叫びつつ鞭で男娼を叩くシーンなんかで、新規ファンを獲得できそうな気がして良さげで堪らない。

俺がその煩悶に耐えていると、ふと昏い気配。

「志貴さん、お友達が見えられてますよー」

玄い女神、琥珀さんだ。この人を敵に回すと、印度神話でシヴァを踏み付ける女帝カーリィの如く、命有る限り、尻どころかその二本の足で以って踏み躙られるであろう。故に彼女の柔らかな、しかし威圧的な笑顔から生み出される『お願い』を、俺は一度足りとも断らないことしている。『いのちをだいじに』というのはDRAGON QUEST4に出てきたAI戦闘の一命令だった筈だが、全く良い格言が残っているものだ。

しかし、友達というのは誰だろう。友達というと、俺の場合は例の悪友くらいしか思いつかない。誠に遺憾なことながら、男友達は乾有彦以外、存在しない。このことを秋葉の後輩辺りに知られると、危険な本のネタにされそうで恐い。とても――恐い。

で、近寄って見ると何だか虚空を覘くような瞳で倒れ伏しているシエル先輩じゃないですかッ! 琥珀さん、何かヤバいクスリを盛りましたね。何ですか、何のクスリを盛ったんですか? 無限再生者をここまで陥れられるクスリって、一体、何なんですかッ!!

心の中で叫んでも、虚しいだけ。さて、近くででかしたわ琥珀と言わんばかり、シエル先輩に獰猛な視線を寄せる秋葉がやけに陽炎めいた雰囲気を浮かべて笑んでいるが、俺はどうしたら良いのでしょうか。しかも、事態を悪化させるような気配があるし。

がっしゃーーーん、ばりばりん、アルクェイド・ブリュンスタット登場。「やっほー志貴、元気してた」「こらあッ!! 何度も言ってるだろうがッ!! いくら空を跳べるからって、窓を破って入ってくるな。普通の学校にあるような硝子ならともかく、意匠を凝らした窓枠の配置されている遠野家では、一度の破壊が数十万に匹敵するんだぞッ!!」

「そうですよ、常識をわきまえてください」

秋葉がまともなことを言うが、その目には変なことを言ったら狩りますよ的な視線が粛々と滲み出ている。が、とはいえこれで三竦み状態は確立された。即座に殺り合いが勃発する事態は避けられた訳だ。

「お金、払ってるから良いでしょ。と――あら、そこに無様に倒れているのは羅馬教会の犬狗じゃない」

アルクは昏い笑みを浮かべ、秋葉と目を合わす。やばいッ!! 隙あれば始末、その為に共謀しようって意志が、フロスト兄弟並にビシバシ交わされているッ!!

「ちょ、ちょっと待て。今は――そう、秋葉の悩みを解決するべきじゃないのか?」

「あ、そうですね――最初の目的を失念してました」

良かった、俺の影響力はまだ失われてはいないようだ。しかし、ちッ! と秋葉が舌打ちするのを聞き逃さなかったし、まだ場の雰囲気には殺意がどす黒く蔓延している。俺の日常は何故、こうも殺伐としているのだろう。

「ねーねー、その悩みって何? もしかして、その年齢でまだしょちょーが来てないとか――微少女のささやかな悩みとか?」

どうして、こうも平穏に収まろうとする空気を、皆して掻き乱そうとするのだろうか。しかし、アルクなんてアーパーの無神経だと断定している秋葉は、殆ど奇跡的ともいえる寛容をみせた。

「それは、これから話します。琥珀、お茶の準備を。翡翠も、そんなところにぼうっと立ってないで、手伝いをしなさい」

えっ、翡翠? 翡翠がどこにいるんだよと思っていると、背後からひょこり。というか、何時の間に背後にいたッ!! 如何に女中が、主人の家庭生活を乱さぬよう影となるよう躾られてると言っても、ものには限度がある。今度、言い含めておかねば。

「畏まりました」

矍鑠と頭を下げ、双子姉妹はリビングを去る。そして三十秒で人数分の紅茶を持って、戻ってきた。というか琥珀さん、最初からこれだけの人数になると分かっていたような手並の良さ。毒でも入ってるんじゃないかと、疑いたくなる。というか、シエル先輩はまだ、倒れたままだ。俺がこれで良いのかと秋葉に目配せをすると――。

「事態がもっとややこしくなります」

尤もだ。ここはソファで眠っていて貰おう。勿論、アルクに首を狩られたり、秋葉に永遠再生ごと掠われたり、琥珀さんに妙な毒物を盛られないように監視することは忘れないようにして。嗚呼、この館で先輩の味方は俺だけかと思うと、泣きたくて絶望的になる。

「御憂慮、心に御染みる思いです」

背後から呼びかけるのは翡翠――やっぱり、俺の心を分かってくれるのは翡翠だけだ。俺的、翡翠好感度十アップ。けど、いつも背後から呼びかけるのは止めて欲しいな。せめて、男には必要な如何わしい本を読んでる時だけは。

まあ、そんな訳で俺は今、逃げ場なしという状況に追い込まれているのだが、これから更なる事態が起きるのが確約されているかと思うと、もう泣きたい気分だ。先生、俺はこういうとき、どうすれば良いのでしょうか?

俺は、ニーチェの魂の嘆きの意味を、この時初めて悟った。

後編に続く