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その日の美坂家の夕食は、珍しくカレーだった。


美坂香里は、割とカレーが好きだ。
目の前の鍋では、自らが手がけたカレーが間もなく出来上がろうとしている。
香里は特に料理が苦手という訳では無かったし、自分が好きな物だから尚の事、その出来には多少の自信があった。

ところが約一名。
せっかく姉が作っているにもかかわらず、レトルトカレーを食べようとしている不届き者が居る。
彼女の妹、美坂栞その人である。

栞は、辛い物がまったくダメだ。
以前も、こんなことがあった。




「アンタさあ、それ止めなさいよ」
香里が、隣でレトルトカレーを温めている栞に声をかける。

「だってお姉ちゃんのカレー辛いんだもん」
栞は少し顔を膨らませて反論する。

「確かにコレは少し辛く作ってあるわよ。 けどね、アンタ『甘口』食べても辛いって言うじゃない」
「あんなの甘口じゃないよ。 甘口っていうのは、もっとこう甘くないと」
「アンタの言う甘いカレーって、そんなのカレーとは呼べないわよ、まったく」

チン、という音がして、電子レンジが任務遂行の合図を鳴らす。

「できた」
栞は嬉しそうに電子レンジからレトルトのカレールゥを取り出す。
「あちち……」

「あたしが言いたいのはね。 わざわざそんな子供向けのカレーなんか食べなくても、別の物食べれば、ってコトなんだけど」
元々量が少ないカレールゥをさらに少し残して御飯にかけている栞を横目に、半ば呆れたように香里が呟く。

「えー、私もみんなと同じ物食べたいんだよ? 1人だけ違う物食べるのってなんか寂しいじゃない」
「そういうものかしらね」
「そういうものなんだよ」




そんなことを思い出し、香里は少し微笑ましくなった。
栞にはとても食べることの出来ない、けれど自分にはベストな辛さのカレーを味見しながら、
たまには甘いカレーもいいかな、なんて事を考えたりした。









やがてカレーが完成し、食卓に準備をしていると、向こうから何故かしかめっ面をした栞が姿を現した。
それは、怒っているというよりは寧ろ困っているような、どちらかといえば可愛らしい仕草だった。
そしてそのまま席に着く。

すぐに夕食の準備が終わり、香里も席に着く。
未だにしかめっ面をしている栞を気にしつつ、さあ食べようとしたそのとき、

「ね、お姉ちゃん」
という栞の声に動きを止められた。

「どうしたのよ、さっきから」
仕方なく、という感じの応答ではあるが、無意識の内に心配していたということを
悟られないようにしていたのかもしれない。

また、相沢君関係かしら?

香里の思考は、過去のデータを参照しながら、漠然とその方向に進んでいた。
実はこのような事は初めてではなかったからだ。

「うん、ちょっと……」
栞はそこで一度言葉を止め、ほんの少し躊躇ったあと、意を決したように口を開いた。

「お姉ちゃん。 ――カレー、交換しない?」

「はあ?」

香里が予想もしていなかった台詞だった。




VSカレー

written by 剛久




事の始まりは、とあるありふれた日常の中にあった。


「なあ栞、そろそろ腹減ってこないか?」

お昼時の商店街。
栞の隣を歩いていた相沢祐一が、待ち侘びていたかのようにそう言った。

「そうですか? うーん、そうかもしれませんね」
小食である栞は、まだそれほど空腹ではなかった。
しかし、祐一の空腹の原因を知っていて、尚且つ栞自身がその原因に加担していたこともあったので、すぐにその提案を受け入れる事にした。

恋人たちにとってはいくらあっても足りないような、貴重な休日という時間。
その貴重な休日の、恋人である人との約束の時間に、事もあろうに祐一は栞よりも1時間遅れてきた。
もっともそのうちの30分は栞が早く来過ぎたせいなのだが、それでも遅刻は遅刻。
起きてすぐ来たと言う祐一はまず食事を提案したが、遅れた罰ということでそれは却下された。
とはいえ、もちろん栞は本気で怒っている訳ではなかった。

「よし、そうと決まればすぐ行動だ。 どこで食おう?」
待ってましたとばかりにそう言い、頭の中でこの辺りの地図を展開する。
祐一は、最近ようやくこの近辺の地理を覚えてきた頃だった。

「私はどこでも構いませんから、祐一さんにお任せしますよ」
元より食生活に偏りがあったので、どこの店でも大差は無いだろうと栞は考えていた。

その言葉を聞いて、祐一の中でひとつの店がピックアップされた。
最近知って、まだ栞と行った事のない店――。

「確か、駅前にインド料理の店があったな。 そこに」
「嫌ですっ」

予想していたことだが、祐一が言い終わる前に却下された。
まだ行ったことのない、というより寧ろ栞と一緒では永遠に行くことの出来そうにない店だった。

「まだ言い終わってないのに断るなって」
「どうしてそういうお店を選ぶんですかっ」
「まあ、とりあえず話は最後まで聞いてくれ」
「……なんですか?」
「実は、そこのカレーが激うま激辛だと」
「絶対に嫌ですっ」

再び言い終える事無く却下される。

予想していた通りのリアクションをする栞を、祐一は可笑しそうに見る。
最近の祐一は、この反応を楽しみに栞をからかう事が多かった。

だから、少し気が緩んでいたのかもしれない。

「残念だ。 せっかくカレー食いたい気分だったのに」
「祐一さん、わざと言ってますね」
「うーん、そんなにカレー嫌いか?」
「カレーと言わず、辛いモノは全部イヤです」

迂闊な発言をしてしまうのは、大体こういうときだ。

「そうか。 じゃあ、新婚旅行はインドに決定だな」

決定だな、の『だ』の辺りでやっと気が付いた。
祐一の中では、カレーが嫌い――カレーといえばインド――インドに旅行――という感じで思考が進み、そして
旅行といえば新婚旅行とふと思っただけで、特にその台詞に他意は無いつもりだった。
無意識に新婚旅行が思い付いたのは、やはり祐一の中でそれを望む気持ちがあったからかもしれないが。

「ゆ、ゆゆゆゆゆういちさんッ!? なな何を言ってるんですかッ!」

人間の耳は優れたもので、雑踏の中から自分を呼ぶ声を聞き分けたりすることが出来る。
そのせいか、丁度たまたま『新婚旅行』の部分に強く反応した栞が、顔を真っ赤にして叫んだ。

「いやッ、いやいやコレは特に深い意味は無くてだなッ! そう言葉のあやだあや!」

ふたりして戸惑う姿は、なかなか滑稽だった。

「そ、それはわ、わかってます、けど……」
「全然まったく! そんなつもりは毛頭無い訳であって、そんなつもりは毛頭無い訳だっ!」

祐一がさらに激しく否定する。

栞にしても、その言葉通り彼女なりに理解してはいた。
しかし、それでもやはり、そんなに力一杯否定されると少し悲しくなってくる。

「……はい、そうですよね、やっぱり……」

先ほどから一転、栞の表情が曇り始める。
それを見た祐一は、またしても自分の失言に気が付いた。

「あっいや違う違う! そういう意味でもなく――ああもう」

兎にも角にも落ち着くために、祐一は目を瞑り溜息にも似た大きな深呼吸をひとつ。
そんな一瞬で冷静さを取り戻せるわけは無かったが、それでもこの場を収束させるだけの冷静さが必要だった。

「悪かった、栞。 いつものように、ちょっとからかっただけだ。 ――でもな」
「……はい」
「その、栞とそういうコトしたい気持ちが、無いわけじゃ、ない、から」

やはりまだ全然落ち着いてないことを自覚し、さらに祐一は恥ずかしくなる。
それでもなんとか次の言葉を繋ぐ。

「いやっ、別にコレは俺が勝手に思ってる事だから別に全然気にする事は――」
「……そんなこと無いです」
「え?」
「私、カレー嫌いですけど、でも、インドだって構いません。 その、――祐一さんとなら」
「栞……」


そこまで言って、ふたりの羞恥心が最高潮に達した。
何せここは商店街のど真ん中。
気が付くと、すでに何人かの通行者の視線を集めていた。

「と、とにかく、飯だ飯っ! 昼飯食いに行くぞ!」
「あ、は、はいっ」





















「――とまあ、そんな事があったの」


美坂家、食卓。
『カレー交換発言』の明確な理由を香里に問われ、その原因となった出来事を栞は話した。
最も、割と重要な部分はぼかしながらだったが。

「……へえ。 アンタも一丁前に惚気るようになったのね」

今まで黙って話を聞いていた香里が、にやけながらジト目でそう言い放つ。
それもそのはず。
嬉しそうに、恥ずかしそうに話す栞を見ていたら、8割以上の人は惚気話だと言うだろう。

「べ、別に惚気てるわけじゃ……」
「はいはい、そういうコトにしておいてあげるわよ。 で、それで?」

慌てて弁解しようとする栞を軽くあしらい、香里は話の先を促した。

「それで、って?」
「だから、それでどうしたのか、って」
「――それだけ、だけど?」

はて、と首を傾げる栞。
その仕草がちょっと可愛いなと思いつつ、香里はその疑問を尋ねてみた。

「それだけって……。 それが、辛いカレー食べたい理由なわけ?」
「え、あ、う、うん。 まあ、そういうことになるかな」
「……呆れた。 まさかそこまで相沢君にゾッコンだとはねー」
「お、お姉ちゃん!」

図星なのか、顔を真っ赤にし今にも立ち上がりそうな勢いで叫ぶ栞。

「そんなに強く言っても、逆効果よ」
「……う」
「でも、本気なの? そんなちょっとカレー食べたくらいじゃ、アンタのその体質は変わらないと思うわよ」
「それは、わかってるけど……」

急に調子を変えた香里の言葉に、栞の調子も変わる。

「わかってるけど、でも、やっぱり――頑張ってみないと、何も変わらないと思うし。 私だって、祐一さんと同じ物食べたい。 
お姉ちゃんの作ったカレーだって食べたいんだよ。 だから――」

「――ま、別にいいけどね。 あたしもその甘そうなカレー食べたかったところだし」
「え?」

栞の台詞を途中で遮り、香里はそう言った。
それに驚いたのか、栞の言葉が詰る。

「じゃ、カレー交換成立ね」
「う、うん……」

さっさとカレーを皿ごと交換する香里を見つめる栞。
さっきまでは交換を切望していたはずだが、その表情は徐々に曇っていった。
急に現実に戻され、怖気づいたのか――そう香里は推測した。

「どうしたの? カレー交換するんでしょ?」
「う、うん、そうだけど……」

歯切れの悪い返事を返す栞を見て、香里はその想像が合っていたのだろうと思った。

「でも、量が違うわね。 栞、残ったらそれ渡しなさい」
「……多分、殆ど余ると思う」
「アンタが言い出したんだからね。 出来るだけ食べなさいよ」
「わ、わかってるよ」

そうは言うものの、全然食べる気配を見せない栞。
その様子を見ている香里もまだカレーには手を付けていない。
見ていてじれったくなってきた。

「ほら、早く食べなさいって。 冷めるわよ」
「……」

じっとカレーを見つめていた栞が、ついにスプーンを動かした。
香里の入れたそのカレーは、御飯とルゥの表面積の比が3:7くらいになっている。
そのスプーンは、わざわざ狭い部分へと向かっていた。
そして、スプーンが御飯を掬い上げようとして、

「ちゃんとルゥも食べなさいよ」
香里がそう言い放つ。

栞の手がピクリと止まる。

「わ、わかってるよっ」
御飯を皿に戻して、再びスプーンが動き出し、

「福神漬けだけってのも無しね」

再び、栞の手がピクリと止まる。

「ううう……」
「ちなみに今らっきょは切らしてるから」

今度こそ栞の手が完全に止まる。
そして、上目使いに香里を見た。

「……祐一さんね?」
「あたり。 ほら、そんなことやってないで、さっさと食べる」

以前祐一からそんな話を聞いたことがあった香里だが、その話題をすぐに打ち切り、栞にカレーを促す。
しかし、今度の栞は2つのカレーを見比べながら、まだ何か考えているようだった。
どうやらやはりカレーを交換した事を後悔しているようだが、もはやここまで来てしまったら、香里の方もなんとしても辛いカレーを食べさせたくなってくる。
退路を塞ぐため、まずこの甘いカレーを食べてしまうことにした。

「じゃ、あたしはこのカレーを頂く事にするわ」
「えっ」

敢えて栞にそう告げてから、香里は目の前のカレーを口に運んだ。

小さい頃に、香里は子供用のレトルトカレーは何度か食べた事があったはずだ。
けれども、ここ数年間はまったく食べていなかった。
最近はカレーといえば専ら辛いものばかり食べていたせいもあってか、その味は殆ど記憶に無い。

それでも、さすがにこのカレーに予想していたような甘さは無かった。
一応、ちゃんとしたカレーの味はする。
が。

「……何コレ」

思わずそんな台詞も漏れてしまう。
カレーのカレーたる所以である辛さが、これにはまったくと言って良いほど欠けていた。
別に不味いと言う訳ではないのだが――物足りない。
同時に、コレを辛いと言う栞の舌を疑った。

「アンタ、どうしてコレが辛いのよ……」
「う……。 きっとお姉ちゃんが特別なんだよ。 辛いの好きだって言ってたし」
「仮にあたしが特別だとしてもよ。 アンタはさらにその上をいってるわ、絶対」

言いながらも、香里はこのカレーを食べ続ける。
やっぱり全然物足りないが、それはもう仕方が無い。


「……よし」

その様子を見ていた栞が、意を決したかのようにそう呟き、そして今度こそルゥ付き御飯をスプーンに掬った。
香里も一度手を休め、その様子を見守る事にした。

「それでは。 ――いただきます」

何やら過剰な重々しさでそう言って、初めて栞は中辛以上のカレーを口にした。

ぱくり、とスプーンを口に銜えた。

香里もその様子をじっと見守る。

そして、咀嚼。

タイムラグは1秒と半分くらいだったと思う。


「――っっっっっ!!」

栞の、声にならない悲鳴――だと香里は思った。
実際、その通りだろう。

「ひ、ひづっ!」
「ヒヒヅ?」

『み、みず』と言ったのだろう、という事はすぐにわかったが、思わず聞き返してしまった。
水の入ったコップは香里よりも栞の傍にあったのだが、香里はそれを取って栞に手渡す。
コップの水が無くなるのに、数秒とかからなかった。
ことん、と空のコップがテーブルに置かれる。

「辛いよっ、お姉ちゃん!」

そんなことを言われても、コメントに困る。
困るので、とりあえず、

「……面白いわね」
香里は、そう返しておいた。

「面白くないっ。 うー、ひたがひりひりする……」
「たった一口でこんなになるなんて、最早面白いとしか言いようがないわ……」

水を飲んでも全然回復していないようで、栞の喋り方はまだ少しおかしい。
ちなみに、栞が口にしたカレールゥの量は、多めに見ても小匙一杯にも満たなかった。


「で、どうするつもり? 今の調子じゃ、食べ終わるまでに1週間はかかるわよ」
「うう……どうしよう」

そう言ってスプーンを置き、考える仕草を見せる栞。
じっとカレーを見つめる目は真剣そのものだった。


「……食べる。 出来るだけ頑張ってみるよ。 だからお姉ちゃん、――お水と、アイスの準備を」
「前者はいいけど、後者はね……。 まだあったかしら?」
「うん。 冷凍庫に残ってると思う」


栞の頼みを聞き、香里は台所までやって来た。
冷凍庫を覗き、目的の物の蓋を開けて確かめてみると、栞の言った通りまだ半分近く残っている。
カップの小さなアイスではなく、2000ml入りの、大きなサイズのものだった。
香里は少し考えた後、再びそれを冷凍庫に戻した。

今から用意してたら、食べる前に溶けちゃうわね。

そう思い直し、水と氷の入ったコップだけを持ち、香里は食卓へと戻った。


「ほ、ほねえちゃん、ひず!」

食卓では、再びカレーを口にしたらしい栞が悶えていた。
香里は、苦笑しつつ、コップを手渡す。
今度は氷入りなので、一気に飲み干す事は出来ないらしく、栞は水を飲むのにも苦戦していた。
このままだとカレーよりも水でお腹一杯になるのでは、と思いながら、香里も自らのカレーに専念することにした。


それから暫くの間、美坂家の夕食はいつもよりも賑わっていた。
























そして、数日後。

「それじゃ、飯取ってくるか。 何にする?」

時刻は1時少し前。
昼休みである。
新たに栞を加え、総勢5人になった美坂チームは、いつものように学食に来ていた。
祐一は、席に残る2人に声をかけた。

「わたし、Aランチ」
「いや、名雪は聞かなくてもわかってるから。 栞はどうする?」

メンバー中、移動速度ワースト2の名雪と栞が席を取り、祐一、香里、北川がメニューを取りに行くのが、彼らのパターンだった。
今日もその例外では無いらしい。

「そうですね、じゃあ……」
栞はそう言ってから、少し考える仕草を見せる。

ここ数日の栞は、いつにも増してメニューを選ぶ速度が遅くなっているな、と祐一は思った。
それに、食べ残しの量も増えていた事を思い出す。

「栞ちゃん、最近あんまり食べてないみたいだったからな。 しっかり食べた方が良いぞ」
「まあ、そうだな。 しかし北川、お前良くそんな事気付いたな」
「いや、それくらい一緒に飯食ってたら当然だと思うぞ」

「えっと、それでは――」
そう言って、栞は顔を上げた。
心なしか、その顔をは何かを決意しているように見えた。

「カレーライスを、お願いします」
カレーライス、の部分を強調して、栞はそう言った。

そして、栞と香里を除く3人が、一瞬だけ停止する。

「――悪い栞、良く聞こえなかった。 もう一度頼む」
祐一などはそう言い出す始末。

大盛況の食堂とはいえ、決して聞こえない距離、声量では無い筈なのだが、そう言われてしまっては仕方がない。

「ですから。 カレーライス、をお願いします」
さっきと同じ台詞をもう一度繰り返す。
2回目は流石にはっきりと、しかしボリュームは控えめだった。

「……本気か? どうなっても知らないぞ」
「はい、大丈夫です。 お願いします」

確認を取るも、栞は断固として引かない。
仕方なく祐一は、カレーライスを手に入れる為、北川、香里と一緒に席を離れた。






テーブルには、注文通りのカレーライス。
一皿しかなかったので、それは当然栞のものだった。

「……なあ栞、ホントにカレーで良かったのか?」
既に買ってしまったのに、いや、だからこそ心配になる。
かつての光景を思い出し、祐一はまた二人分食べる羽目になるのかと思うと気が滅入った。
しかし、そんな祐一を尻目にスプーンを手に取る栞は、食べる気は十分に見えた。

「大丈夫です。 生まれ変わった美坂栞を見せてあげます」
「生まれ変わった、ねぇ」

香里のツッコミも気にせず、栞はカレーを口に運んだ。
その様子を、残りの4人は様々な面持ちで見つめている。
スプーンを口にくわえ、何度か咀嚼する。
そしてそれを飲み込むまで、誰も口を開かなかった。

「……大丈夫、なのか……?」
祐一が最初に口を開いた。
栞はそれに笑顔で答える。

「だから、大丈夫だって言ったじゃないですか」
そう言いながら、二口目に入る。

祐一も最初は訝しげな表情で見ていたが、その様子は無理をしているようには見えなかったので、安堵の息を吐いた。

「凄いな、栞。 ホントに克服したのか」

しかし、祐一がそう言った直後、香里が溜息と共に喋り出した。

「相沢君、違うのよ」
「違うって……何が?」
「お、お姉ちゃん!」

慌てて栞が手を止め、香里を制止しようとした。
しかし香里は構わず続ける。

「この子ね。 辛い物食べ過ぎて、今舌が麻痺してるだけなのよ」

その台詞を聞き、祐一は一瞬言葉を失ったが、すぐにその意味を理解し栞の方を向いた。
栞は申し訳なさそうな顔をし、そして下を向いてしまう。
その仕草から、香里の言葉が真実である事悟った。

「ま、一時的なものだとは思うけど。 ここ数日、毎晩カレー食べてたのよ、栞は」
「ば――お前、そんな無理して食べようとしなくたって――」
「でも、祐一さん!」

半ば叫ぶようにそう言い、栞は祐一の方を向いた。
祐一は少し驚き、そして栞も自分の声に驚いたのか、その勢いはすぐになくなった。

「だって、祐一さん、その……前に言ったじゃないですか」
「言ったって、何を……」

必死に記憶を探る祐一だが、心当たりは見つからなかった。
数秒の沈黙のあと、耐えかねた栞が声を出す。

「ほら、前に……新婚旅行って……」
「……あ」

その言葉と恥ずかしそうに俯く栞を見て、祐一はやっと思い出した。
急に様々な感情が湧き出てくる。
祐一は、それらを一つに纏めようとして失敗した。

「まさかお前、あれ本気にして……」
「いえ、それだけという訳では無いですけど……でも、はい、きっかけは、そうです……ね」

ますます声が小さくなる栞。
そんな彼女を見て、祐一の感情がおぼろげながら一つの形になりつつあった。
思わず抱きしめたくなった。

「馬鹿……そんな無理しなくたって……。 ゴメンな、栞。 あれは流石に調子に乗り過ぎてた」
「いえ、そんな、祐一さんが謝る事では」
「栞が行きたいんだったら、何処へだって連れていってやるさ。 ――いや、今すぐ海外とかは無理だけど、でも……」
「……本当ですか?」
「ああ、新婚旅行とはまた別に、――って、うわ、また俺迂闊発言」
「あはは……。 でも、はい、ありがとうございます、祐一さん……」

「で、ふたりとも完全に自分たちの世界に入りこんじゃってる、と。 ちゃんと場所把握してやってよね、そういうことは」
「恥ずかしい奴だな、相沢……」
「ふたりとも、らぶらぶだよー」

周りに茶化され、二人共我に返った。
そして、赤面。
周りで笑いが起こる。
あまりの感情の変化に、場所が大盛況の食堂であるということは完全に忘れていた。
栞はますます縮こまり、祐一は引きつった苦笑をする。
今更隠すような仲では無い筈だが、それでもさっきの発言は飛びきり恥ずかしかった、と祐一は自覚した。


祐一は、ちらりと栞の方を見た。
その視線に気付き、栞も祐一の方を向く。
お互いの顔を見合って、そして笑い合った。


新婚旅行、か……。
祐一は思う。
未来はやっぱり不定だが、そうなって欲しい、と考えている自分もいる事に気付いていた。






ちなみに、栞の舌は、一週間で元に戻った。

- Fin -



update:03/04/20
last update:'07/08/21 06:42:42
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